Cinema 映画館、[一本の]映画。cinematograph[映画撮影機/映写機]の略語。

 それほど大きくはない街の、途中で進化を忘れたような、こぢんまりとした繁華街。映画館[undercroft]は、その繁華街の南のはずれ、名前のとおり地下にある。街に三つある映画館のうちで一番小さい。席は横が八列、縦に十二列。それでも満員になることはほとんどなく、ときには人が全く入らないことすらある。お客の入ったときだけ、フィルムが回る。
 蒸し暑い七月の夜、葉月(はづき)は映写室で、何度も見たストーリーを、またぼんやりと眺めている。
 映画の中では、いま奇跡が起こっている最中だ。
 場所はアメリカの、朝っぱらの安っぽいダイナーで。ひとりの男が神の御言葉を語る。まのぬけたTシャツを着て、髪型もだらしない。「くされヤロウ」とか何とか書いた汚い財布をポケットに入れてるようなやつだ。
 そいつが、すっかり諳んじている御言葉を語る。その言葉はいつしか、道標のような確かさで空気の流れに有機性を生み、まず、頭の弱い若造カップルの魂を、無鉄砲な迷走から鮮やかに救い出す。そして男自身も、語るうちに、御言葉の意味を、本当の意味をはっきりと理解しはじめる。こうしてほんの十分かそこらの間に、少なくとも三つの魂が、小さな奇跡を体験する。居合わせたもうひとりは奇跡を目の当たりにしながら、なにが起こったのか良く分からず、不審げな顔でなりゆきを見守っている。フィルムを見つめる観客たちも、その奇跡を、あるいはその無知を、一緒に体験する。

 フィルムが終わる。
 エンドクレジットが流れ終わらないうちに、六人いた観客のうち五人は席を立って出て行く。五人目が出て行き、扉が閉まると、葉月はフィルムを止めた。
 最後のひとりが、ゆっくりと立ち上がる。灯りを戻すと、琥珀色の薄闇の中にみやびちゃんの後ろ姿がかそけく見える。
 背中で波打つ栗色の長い髪。からだに柔らかにまといつく、淡いブルーシフォンのドレス。細いウエストの周りで、溶けそうにしなやかな生地が花弁のようなひだを作っている。その後姿だけでも十分に色っぽいのに、みやびちゃんは振り返り、映写機を片付けている葉月に向かってにっこりと微笑んで見せる。葉月は巻き戻したフィルムを缶に戻す途中だったが、からだを少しねじってこちらを見るみやびちゃんの姿に見とれておもわず手を止める。
 みやびちゃんは、客席の後ろの映写室にゆったりと歩み寄ってくると、ガラスに顔を近づけ、唇の動きだけでささやいた。
 よく寝たわ。
 全く、もう。葉月は肩をすくめ、缶の蓋を閉じると、煙草に火をつけて深く吸い込む。けむりをゆっくりと吐きながら、街の男達がやるように、みやびちゃんを遠慮なく眺めた。
 たしかに、わからなくはないわ。わたしだって男だったら、きっとこの子を欲しいと思うに決まってる。
 すっくりと伸びた首すじから胸、腰へのラインは、何者にも束縛されずに育った植物の茎のしなやかさを思わせる。肌は一度も汚れたことがないかのように清らかで、そのくせ、体全体で愛される事を待ち焦がれているような色香を持っている。
 葉月は咥えたばこのままフィルムを棚に戻し、重いガラス扉を押し開けて、映写室を出る。現実世界の蒸し暑さが、とたんに全身にまといつく。
 みやびちゃんは我儘な猫のように優雅に伸びをして、ひとつ小さなあくびをする。彼女はいつも眠るために映画館にやってくる。ひとりで眠るのが怖いのと、長く眠るのが怖いのと(映画館でなら、世界は悠久などではなく、約二時間で一巡してくれる)、家では彼女の良人たるはつかねずみが、不寝で知識の探求をつづけているので、落ち着いて眠る事ができないせいだ。
 はつかねずみは、ときどきみやびちゃんの大きなトートバッグに入って葉月の部屋を訪れる事があるが、地下の映画館には決して入ろうとしない。カラカラと回るフィルムのリールが、ねずみにとって屈辱的なあの遊具の存在を思い出させるからだ。だからみやびちゃんは、映画館には一人で来る。そして、他の観客の気配と、登場人物たちが喋る台詞のざわめきに守られて、安心して眠ることができる。
 もう夜の九時を回ったのに、みやびちゃんは無邪気に言う。
 「おはよう、葉月」
 「おはよ。はつかねずみは、どうしてる?」
 「いつもどおりよ。百科事典を読んでるわ。それより葉月、まだ映画館閉めないの?もう終わりなら、どこかに行こうよ」
 葉月とみやびちゃんは、映画館を閉めてから、よく二人で街に遊びにいくのだが、いつもは早く映画館を閉めるように催促したりはしない。昼下がりに来てからずっと映画館で寝ているし、今日のみやびちゃんはちょっと変だ。
 みやびちゃんは家に帰りたくないのかな、と葉月は思った。はつかねずみと何かあったのだろうか。あの博識だが性格のひねくれた倒錯者。大判の本はねずみのからだには大きすぎるが、全身をページに預けるようにして読み進んでいる。みやびちゃんははつかねずみのために三十六冊セットの百科事典を買い、ねずみの爪と短い前肢でもページをめくりやすいように、やすりでページのふちを削った。
 はつかねずみは今、三十六冊のうち四冊目を読んでいる。Cの項が佳境に入るあたりだ。

Cinquecento 十六世紀イタリアの美術・音楽・建築様式。

 みやびちゃんが柔らかな絹のシフォンを着ているので、葉月は対比効果を狙って、ハリのある麻のノースリーブのシャツを選んだ。色はグレーがかったアイスブルーで、動くと縦糸に織り込まれた銀粉がキラキラと光る。ボトムは特注して染めてもらった、夜のブルーのレザーパンツ。灯りを落とした場所では黒に見えるのだが、ただのブラックレザーと違い、ロックスターみたいな下品な獣臭さは全く感じさせない。足元は華奢なピンヒールのサンダル、むきだしの腕には極細の銀のワイヤーで編んだブレスレットを巻き、同じ素材で丁寧に編み上げたヴァニティバッグを持つ。これでみやびちゃんと並べば、全くイメージの違う、けれどブルーのグラデーションで仕上げたふたりの女が出来上がる。
 ノックが聞こえ、返事をする間もなく、みやびちゃんが顔を覗かせる。
 「できた?」
 葉月は仕上げにパールベージュの口紅をひき、ベルガモットの香のトワレを首すじに吹きつけた。
 「OK。じゃ、行こうか」






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