damascene [金属に]金銀を象嵌する[刃に]波紋状の[にえ]を浮かす

 わずかなひとの気配で葉月は目を覚ました。目を開くと、そこには羅紗がいた。
 なつかしいひと。
 ふとそんな言葉が思い浮かび、葉月は苦笑した。会うのはたったの二回目。もう一度目を閉じてみる。ゆっくりと開いてみると、羅紗はやっぱりそこにいた。
 「いつから、そこにいたの?」
 「ついさっきだよ。鍵が開いてたものだから…」
 「いま、何時?」
 「そろそろ昼だよ」
 もう今日は、午前中の映画館は休みにしよう。葉月は勝手にそう決めて、シートの中でからだを動かした。全身がこわばっている。立ち上がろうとすると、ピンヒールの足元が少しよろけた。
 「大丈夫?」
 「平気。同じ姿勢でじっとしてたから、疲れただけ」
 ふたりは狭い通路で向き合った。羅紗は笑いながら言った。
 「葉月、喉、かわいてない?」
 羅紗は工具箱を開けると、そこからミネラルウォーターのボトルを取り出して葉月に渡した。それはよく冷えていて、手の中で表面に細かい露を結びはじめた。
 「いつも、これ、工具箱に入れてるの?」
 「そう。実はこれ、保冷ボックス。保冷ボックスに工具入れたって、別にいいだろ」
 「いいけど…」
 葉月は思わず、吹き出した。蓋をねじって開け、直接口をつけて飲む。冷たい水が喉を滑り落ちる感触で、目が醒めた。
 「ありがと」
 葉月の声は、目覚めたばかりなのと、冷たい水のせいで、喉にからんでかすれた。羅紗はそれを唇の動きだけで読み取って、自分も声を潜め、低い声で応えた。
 「近くで仕事があったから、寄ったんだ。気になって…」
 「気になるって、何が?」
 「わからない。仕事をしてても集中できなくて」
 「そういうときでも、手は、動くのよね」
 「うん。無意識に」
 羅紗は目を伏せ、手の中の工具の重さを思い出すように指を握りしめる。無意識に追わずにいられないのは、音色ではなく、まったく別の存在だ。その意味に気づいていながら、葉月は柔らかくはぐらかす。
 「神経を使う仕事なのに、平気なの?」
 「大丈夫だよ。ごく標準的な家庭用のピアノなら、半分寝てても調律できるね」
 「宵司のピアノなら、そうはいかないわね」
 羅紗は苦笑した。
 「あいつは、半分病気だね。いつものことだから、馴れたけど。この間も、いきなり電話してきて、十六世紀イタリア様式の古楽曲が似合うチューニングにしてくれとか」
 「なに、それ。昨夜は?」
 「あの場所で、十年間放置したピアノの音を作ってほしいって。本当に十年間ほっとくわけにもいかないし、もしそうできたとしても、イメージ通りの音にはならないだろうな。とにかく大変だったよ。昨夜は…」
 最後の「昨夜」というひとことだけを、羅紗はふいに声を落として囁いた。微妙な空気の震えだけが宙にとどまり、音は舌の上から滑り出たすぐそばで消えてしまう。聴こえない音を理解するために、葉月が羅紗の唇に意識を向けた瞬間、二人の距離は、立っている位置から息が触れ合う近さまで、急速に引き寄せられていく。
 葉月ももう、気づかない振りはできなかった。わかってるわ、という代わりに、彼女は微笑んだ。羅紗は葉月に歩み寄り、肩に手をかけ、キスをした。葉月は目をとじて、抱きしめられるのにまかせた。ゆっくり唇が離れたあと、彼女は軽く眉をしかめて微笑んだ。
 「こんなこと、どこで覚えたの?」
 羅紗は笑い、声を出さずに答えた。オンキョウガクノキソチシキ。
 揺れる息が頬に触れる。葉月はからだの力が抜けるような気がして、羅紗にすがりついた。羅紗はもう一度彼女にキスをする。そうされてやっと、彼女は、自分がそれを待っていたことに気づく。遠慮がちに手を伸ばし、彼を抱きしめる。服の上から、背骨に触れる。触れた指の先から、羅紗が流れ込んでくる。自分の血液のように身体に馴染んでくる感触。どうしよう。彼女はうろたえ、少し待ってもらおうと、声を上げる。
 「ねえ、羅紗…」
 彼女の声は水のように震え、彼の感情を抑える役にはまったくたたない。それはかえって、より深く潜っていきたいという欲望を誘うだけ。羅紗は片腕で彼女を強く抱きしめ、もう片方の手で、二の腕に巻かれた繊細な銀のブレスレットに触れる。あまり精巧に編んであるせいで、金具がどこにあるのか分からない。羅紗は彼女の耳のそばで言う。
 「これ、外しなよ。ワイヤーが歪んじゃうよ」
 葉月はブレスレットを手探りで外す。金具の在りかは指が覚えている。外したブレスレットを工具箱の上にそっと載せる。羅紗が、葉月に身に付けているものを外すように言うのは、これだけ。あとは全部、羅紗の手が上手にしてみせる。






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