eyespot [下等動物の]感光器官、[孔雀の尾などの]眼状斑点

 羅紗は葉月を振り返った。今までの一週間、毎晩抱きしめ、恋していた女はどこへ行ってしまったのかと訝るほど、今の彼女は違う雰囲気を漂わせていた。
 いつも背筋をきれいに伸ばし、少し勝気な光を浮かべた目で羅紗を見つめ返していた。彼女は今、勝ち負けなどすべて放棄してしまったようなからっぽの表情で羅紗を見上げている。壊れた電球のように静まり返った身体。ただ瞳だけが、たった今皮を剥かれた葡萄みたいにつやつやと濡れて、無防備に輝いている。
もうだめだな、と羅紗は思った。もう何もなかったことにしてこの女を手放すことはできない。昨夜ならできたかもしれなかった。例えばこのまま彼女をうまくなだめて映画館まで送り届ける。玄関口でキスのひとつでもして、また来るよ、とかなんとか呟いて立ち去るようなこと。甘い上澄みだけを上手に舐めて、底に溜まっている澱まで飲み干す必要はなかった。けれど今となっては無理だった。今の羅紗が葉月について語ろうとすれば、昨夜とは較べものにならない複雑なことばが必要になるに違いなかった。
 それだけのことを丁寧に説明するわけにもいかなかったので、羅紗は彼女の隣りに座り、ただ手を握った。離れていたのはほんの数分なのに、もう指先は冷え切っている。
 広場の向こうでは、ちょうどくらげ娘の踊りが終わったところだった。彼女のからだは、本当の人間なら火照って紅潮しているのにちがいない。全身が月光のように青白い燐光に包まれ、それが呼吸にあわせて点滅する。いつのまにか彼女の横には、大きなガラスの水槽が用意されている。くらげ娘はそこに片足を入れ、くねくねと身をねじる。曲がるはずのない骨がしなり、彼女はさいごには胎児のように身体を小さく折って箱の中にすっかり納まってしまう。
 かすかなどよめきと拍手が聞こえ、それを遮るように座長が歩みより、ガラスケースを抱え上げる。幌のついたトラックの中に、まだ光を放っている箱を押し込むと、あたりは星のない夜のように暗く味気ない空間に戻った。
 座長はガラスケースのかわりに、あちこち凹んだブリキの缶を取り出す。見物客たちがそこに小銭を投げ入れるのを見て、葉月は音も立てずに立ち上がった。人込みを縫って広場を真直ぐ横切る後姿を羅紗は一瞬見送り、すぐに早足で後を追った。
 葉月はポケットに手をやったが、ちょっとした散歩のつもりで出て来たので、お金はまったくなかった。彼女は迷わずにペンダントを外した。彫り物を施した銀板に七色貝が埋め込んであるアンティーク。それを座長の目の前で揺らしながら、葉月は言った。
 「これ、本物の七色貝よ。売ればいいお金になるわ」
 「そりゃ、どうも…」
 「代わりにお願いがあるの。もしあの娘がくらげになったら、ちゃんと海に放してあげて。このへんの川に流したりはしないで」
 言うなり彼女は、ペンダントを指から滑り落とした。重たい金属が底に当たる音も確かめずにその場を離れる。
 羅紗は少し考えて、自分も小銭をいくつか掴み出してブリキ缶に投げ込んだ。振り返って探すと、 葉月は映画館とは反対のほうへ歩いていく。見知らぬ他人のような後姿を羅紗は走って追いかけ、広場を出たところで追いついた。訊かないで、というみやびちゃんの言葉は覚えていたが、羅紗は葉月の肩をつかんで振り向かせ、切羽詰まった口調でたずねていた。
 「どうしたんだよ、葉月、どうしちゃったんだ?」
 葉月は羅紗を見つめ返し、まぶしいものを見たときのように少し眼を細めた。彼女は一見もうすっかり落ち着いていて、うっすらと穏やかな無表情を顔にはりつかせていた。
 「ここで帰ってもいいのよ」
 葉月のものではない声で葉月が言った。何か変だ。羅紗は直感して少し怯えた。
 「あたしを信じてる?」
 その問いかけは突き刺すようだった。羅紗にとっての葉月は、出会ってからの一週間がすべての女だった。信じるほどの証拠も、疑うほどの嘘も、まだない。それでも羅紗はうなずいた。それ以外の答えはありえなかった。
「どこへ行くんだ?」
 葉月は途方に暮れたように首を振った。羅紗は彼女の手を取った。
 「一緒に帰ろう」
 葉月は動かなかった。
 「何があったか、知りたくないの?」
 羅紗は無言で少し考えた。知りたくもあったし、知らずにもいたかった。本当はまだ自制する余裕はあったけれど、聞くべきだということはわかっていた。葉月はきっと話してみたいと思っている。それは彼女ひとりには重すぎて、誰かが手を伸ばして引っ張り上げてやらないと、外へ出て来ることができない。彼女はいま、羅紗の手を待っている。






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