glossolalia 異言[gift of tongues] ペンテコステ派の信者の祈り;不可解な言語を発する 「見なくなったって言っても、見ようと思えば見えるの。瞼を閉じるような感じで、見ない方法を覚えただけ」 葉月は胸の奥から、大きく息を吐いた。暗闇の中で黙っている羅紗を見つめて、うっすらと微笑した。 「うっかり見ちゃっても、気持ちを張り詰めてれば平気なんだけど。あなたといると、駄目ね。すっかり安心しちゃって」 「いいよ。それで」 「あんなに動揺したの、久し振り。みやびちゃんはいいかげん馴れてるんだけど、驚いたでしょ。ごめんね」 「謝るなよ。いいから、こっちにおいで」 羅紗の言葉は雨を待つ乾いた砂のような響きで、底には拒絶のかけらも感じられない。流砂に呑まれる昆虫のような無力さに心地よく浸されながら、葉月は羅紗にからだを預けた。映写室の狭い一人掛けのソファで、羅紗は葉月を抱きしめた。 「おれのことも見た?」 「そんな…よしてよ」 「まだなら、今、見てみなよ。知らないままじゃ不安だろ」 葉月は首を振った。羅紗は目を閉じようとする葉月の顔を片手でやさしくつかまえる。口唇を柔らかくこじ開けるようなキスと一緒に、静かな声が流れ込んでくる。 「おれは大丈夫だよ。聞いたからって逃げたりしない」 ことばの通り、羅紗のくちづけは、彼女との距離を縮めたいという単純な欲望だけをそのままに伝えてくる。触れ合った歯の隙間から息を押し出すように、葉月は打ち明けた。 「…ほんとは、見ようとしたのよ。初めて会ったときに、ナイトクラブで」 羅紗は奈落で出会った葉月を思い出す。ベルガモットの淡い香と、途切れがちな会話。深い黒さをたたえた眼は、羅紗が名前を呼ぶと、白熱灯に照らされて、あえかに揺れた。明け方、ナイトクラブを立ち去るときの、問い掛けるような表情。意味はわかっていたけれど、羅紗には、次に会う約束をすることさえもどかしかった。だから翌日、自分から映画館に行ったのだ。 「でも、何も見えなかったわ。あなたはあなた、それだけ。本当よ……これで安心した?」 「安心したかったのは、君のほうだろ。何か見えたら、二度と会わないつもりだった。違うかい?」 葉月は答えられずに目を伏せたが、羅紗は彼女を咎めたいわけではなく、ただ本当のことを感じたままに口にしただけだった。羅紗は葉月を脅かさないように、ゆっくりと髪に指を絡ませ、視線を合わせた。 「でも、もう遅い。少なくともおれは、何もなかったことには、もうできないよ」 「羅紗…怖くないの?」 「さあ。そのときになってみないと」 「呑気ね」 「うん」 本気なのか、平穏を装っているのか、羅紗はゆったりと笑う。つられてようやく微笑を浮かべながら、葉月は本当はわかっている。 消しゴムで消すように全てを忘れることはできないし、何もかもが劇的によくなるなんてことはない。それでも、砂に染み込んだ雨水は、いつか濾されて澄んだ水脈になる。長い時間をかければ、胸の中に残っている空洞も満たされるかもしれない。葉月は羅紗に抱かれながら、そのときを漠然と待ち焦がれた。 → |
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