Jellyfish くらげ、意志薄弱なひと、いくじなし

 週があけると、夏は一歩終わりに近づいている。朝の空気は透明な結晶のように引き締まり、ほんの少し真空に近づいたような気配だ。宵司はピアノの音の抜けがよくなったと喜んでいる。暑い夏の間は自分たちのことで精一杯だった人たちも、少し冷静になれるのか、映画館にも、お客が徐々に戻っている。
 その日、みやびちゃんは、まるで家出するような大荷物を抱えてやってきた。もっとも、はつかねずみの入ったトートバッグを肩にかけたまま家出をする意味もないのだが。反対側の手には、大きな百科事典を一冊と、分厚く大判の帳面を何冊か。さすがにうっすらと汗をかいたみやびちゃんは言った。
 「葉月、シャワー貸して。少し休ませてくれる?」
 上映の合間、ちょうど客席のごみを片付け終えた葉月はうなずいた。
 「どうぞ。ほら、階上の鍵。タオル使っていいからね」
 「ん、ありがと」
 「すごい荷物ね」
 「うん、はつかねずみに、いろいろ入り用なのよ。あたしがここで寝てる間、上で待っていたいって。羅紗に会いたいんだって」
 「ふぅん」
 みやびちゃんは指先で鍵を揺らしながら二階へ向かう。様子を見に行こうかな、と思いながら、お客が途切れずに入ってくるので葉月はカウンターを離れることができない。そろそろ次回の上映が始まるころになって、ようやくみやびちゃんが降りてきた。髪はまだ濡れたまま、冷えないように、葉月の薄手のストールを肩に巻いている。
 「じゃ、おやすみ」
 みやびちゃんはコインをひとつ料金箱に入れる。みやびちゃんだけの特別料金だ。
 「おやすみ」
 葉月が答えると、みやびちゃんはうっすらと笑った。
 「ねぇ、今日終わったら、出かけない?きちんとお化粧して、ふたりで」
 「いいけど…何かあった?」
 「どうもしないわ。最近、二人で出歩いてないから、つまんないなあと思って」
 客席に向かうみやびちゃんの後姿は、濡れた髪が痛々しくて、葉月はわけもなく哀しくなる。こんなとき、お祈りの言葉を知っていればいいのにと、ふと思った。

juxtaposition 並置[並列]状態、 the juxtaposition of good with evil 善と悪を対置させること

 みやびちゃんの見る夢は、いつも映画とどこかリンクしている。瞼越しに変化する光や、音、会話の端々によってストーリーが作られていくせいだ。
 今日のみやびちゃんはロンドンで、地下鉄の駅に向かって歩いている。パパに手をひかれた小さなこども。こどもは背が低すぎて、パパの顔を見ることができない。あたしはパパを知らないんだから、無理ないわ。みやびちゃんは呟き、石のオブジェに飛び乗る。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。小さなからだはエネルギーを持て余して撥ね回る。
 ふとこどもは足を止める。目の前に異様な紳士が立っている。白髪で、骸骨に皮を被せたみたいに痩せていて、何色だかよくわからない濃色のスーツを堅苦しく着込んでいる。人の目など意識せず、何かの考えに思考をさらわせるままにしている。意味のわからない難しいことばを一心に呟きながら、宙に指をさまよわせ、何かを書き取ろうとしているかのようだ。
 テオドール?
 容貌はまったく似ていないのに、その名前が自然に浮かんだ。みやびちゃんが心の中で呼びかけると、紳士はこちらを見た。高度な知性はもう何の役にも立たない。すべての知識はバラバラに砕けて、つながりを失ってしまった。狂気に貫かれた眼はみやびちゃんを怯えさせる。みやびちゃんはパパの腕にしがみついて今見たものを忘れようとする。顔を伏せているみやびちゃんは、手をひくパパがいつのまにかテオドールになっていることに気づかない。
 地下鉄はときどき、息継ぎをするくじらのようにトンネルを這い出て地上を走る。地上駅のベンチで、みやびちゃんは今度は、若い女になっている。あまりきれいじゃない、ただミニスカートから覗く太腿だけが、すべすべと白い光を発しているような女。彼女はベンチに座った男の膝の間につかまえられている。若い男は笑いながら、彼女の腰に手を回す。あんまり頭、よくないわ、この人。初めて会う男だけれど、みやびちゃんは心の中でこっそり思う。男はみやびちゃんの腿を撫でながらまた笑う。みやびちゃんも曖昧な微笑みを返してやる。
 いつのまにかプラットフォームでは、さっきのこどもがパパの影に隠れるようにして大人しく列車を待っている。そしてテオドールもそこにいて、相変わらず何かを呟きつづけている。ペンテコステ派の僧侶の異言のように意味をなさない独り言。狂気に貫かれた眼が、指が、足が、灰色のプラットフォームをさまよう。みやびちゃんは男の愛撫が鬱陶しくなって身体をよじる。それを気持ちの高鳴りと勘違いしたのか、男はみやびちゃんを抱き寄せてキスしようとする。男が気分を害さないように気を使いながら、みやびちゃんはテオドールが気になってしかたがない。
 列車が近づいてくる。こどもはパパの手を強く握って不安に耐える。その丸い瞳はテオドールから離れない。みやびちゃんは、こんなくだらない男の相手役をあてがわれたことが腹立たしくなってくる。こいつは誰?苛立ちにみやびちゃんは唇を噛む。いい加減に手を放してよ。あたしはあんたと遊ぶつもりなんて毛頭ないわ。叫びたいのに声が出ない。太腿にからみつく手を払いのけられないまま、みやびちゃんは振り返ろうとする。
 テオ…!
 それが合図のようだった。紳士は両手を広げ、プラットフォームに入ってくる電車に向かって飛び込んだ。ほとんど滑稽といってもいいポーズで、嫌味なほどのスローモーションで。
 こどもはそれをはっきりと見た。パパはうっすらと予感して眼を伏せていたので、こどもほど克明にそれを見ずに済んだ。みやびちゃんは振り返った肩越しにそれを見た。みやびちゃんを抱いていた男は、コートの中の女のからだに気をとられていたので、みやびちゃんほど克明にそれを見ずにすんだ。






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