羅紗は、かつてテオドールの下にいたどの学徒よりも注意深くテキストを読み進んでいるはずだった。けれど羅紗には、その意味が全く理解できない。字が読めないわけでもなく、ひとつひとつの語の意味がわからないというわけでもない。それをどのように繋ぎ合わせれば文脈が生まれ、意味となって流れ始めるのかが、まるで見えないのだった。
 それは、ボキャブラリーだけ眺めても、哲学書と数学書と宇宙譚と歴史小説と童話とゴシップ記事とポルノグラフィと芸術批評をそれぞれに抽出してバラバラにつなぎあわせたような代物で、語と語、パラグラフとパラグラフの間は、まともな知性の持ち主には到底埋めることのできない錯誤であふれていた。雑然と入り乱れる単語の群れは、複数の人間が乱暴に噛み砕いて皿の上に吐き出した細切れのパスタのようで、フォークを入れてみてもつるつると滑り落ち、口に運ぶことすらできない。そんなものの味はどうかと聞かれても答えようがなく、羅紗は軽い吐気を噛み殺しながら、意味をなさない単語の奔流を眺めていた。
 「どうかな?意味がわかるかな?」
 沈黙し、ページを繰る手を止めてしまった羅紗を見上げ、はつかねずみは尊大な調子で訊ねる。 羅紗はまだ半分も読んでいない帳面をいったん閉じてはつかねずみを見る。会話するぶんには問題なく受け答えができる。けれど書くことに関しては、もうだめだった。高度な知性はすでにバラバラに砕け、つながりを失ってしまった。百科事典を読み進んでいるせいで、綴りの長い単語も間違いなく書き写すことはできているが、その語を自分の論旨のどこにあてはめるべきなのかが、全くわかっていない。
 「正直に言ってかまわないのだよ」
 ねずみは怯えているのを悟られないように言うが、その問いかけそのものが羅紗には苦痛だった。葉月のことを思い出す。みやびちゃんのママに何を見たのかと問われ、答えられずに立ちすくむ少女。けれど羅紗はもう十五歳ではなかったし、無力な女の子でもなかった。羅紗ははつかねずみを真直ぐに見て、笑ってごまかすこともせず、抑揚を抑えた声で言った。
 「ものすごく、難解です。ところどころ理解できない個所も」
 はつかねずみは間髪を入れずに問い返す。
 「どこがだ?」
 今ここで、嘆きや哀れみのことばを口にするわけにはいかなかった。そんなものを求められていないのは読む前から承知の上だったが、これほどの崩壊を目の前にして、他に何を言えばいいのかと思うとことばに詰まった。指先で帳面の表紙の辺をなぞりながら、何を見たのか冷静に思い出そうとする。帳面を開いてしまえばきっと、かえって混乱して何もわからなくなってしまう。
 「たとえば…段落と段落の間で、流れを見失いかけるんです。注意深く行間を読まないと…」
 「そのとおりだよ、羅紗君」
 はつかねずみは暴力的に言い放って笑い声を上げた。
 「せいぜい行間に目を凝らすがいい。そこには目に見えないインクで答えが書いてある。わかるか? 焙り出しインクだよ。帳面ごと炎に投げ込めば、煙の中にでも、書き残された言葉が浮かび上がるかも知れんな」
 悪意の籠った耳障りな笑いに羅紗の心は凍りついた。やがてはつかねずみは笑いやめ、脱力したように、前肢の間に鼻づらを埋めた。
 「やはり、そうなんだな?私のことばはもうバラバラなんだな? 確かにそうだろう。前後の見境なく、憶えている単語を書きなぐっているだけなんだ」
 羅紗は答えることができない。たとえば才能のなさを自覚してしまった音楽院生を力づけてやるような、その場を取り繕う言葉を知らないわけではなかったが、そんな慰めには何の意味もなかった。むしろはつかねずみの方が、落第した学生を励ます鷹揚さで羅紗にことばをかけた。
 「気にするな、羅紗。自分で書いたものが理解できなかったんだ。わかっていたことだ。気にしなくていい」
 「でも」
 「それより、教えてくれ。たとえばだよ。この文章…文章と呼べるならの話だが、これはまだ、修復が可能かな?」
 「修復?」
 「たとえば、このテキストに君が手を加える。前後を入れ替え、語をつなげる。それで、論文としての形を成すことはできるだろうか」
 羅紗は首を振った。瓦礫をそのまま積み上げたからといって、もとの建物にはならない。ここまで壊れてしまったものを形にするには、新しい骨組みと素材を入れ、一から全てを構築しなおすしかない。
 「おれが手を入れたら、それはもうあなたのテキストではなくなってしまいますよ。それにおれは、哲学の知識もないですし…」
 「音楽はわかるのだろう?音楽と哲学は、根底でつながっているのだよ」
 けれど、はつかねずみのことばには、根底を支える流れすら見出す事ができない。とても羅紗の手に負えるものではなかった。はつかねずみは察したのか、それ以上押すことはなくうなずいた。
 「確かに、人の書いたものに手を加える方が、余程難しい。私が学生の論文を修正するときも、それが破綻していればいるほど、どこから手をつけたものか悩んだよ」
 「わかるような気もします」
 「いっそ、一から書き直してみる方が、余程ましだ。だが、何をどう書き直したものか、組み立てることができないんだ」
 「口述をやりますか? 話すそばから、タイプで打っていけば」
 「有難いが、遠慮するよ。ひとりじゃないと書けないんだ。昔も試したことがあるが、うまくいかなかった」
 ペースが速ければ速いで、論旨について来れない相手を気遣うことになる。言葉が出なければ今度は、じっと待っている相手に追い詰められた気分になる。書き終えた場所に戻って再び考えを巡らすためにいちいち許可がいる。そんなことの繰り返しでは、神経が疲れるばかりで、真理を導き出すどころではない。はつかねずみは話題を羅紗に向けた。
 「君は何も書かないのか?日記も、随筆も、手紙すらも?」
 「そうですね、最近は何も…学生の頃は、落書き程度のものなら」
 「書いておくといい。必ず、支えになる」
 「憶えておきます」
 羅紗は言いようのない不安を感じてはつかねずみを見つめた。はつかねずみが羅紗を信頼しているといっても、今までは、噛みつかないとか嫌味を言わないという程度のことだけで、こんなふうに何か教えを授けたり、優しさすら含んだ言葉をかけることは初めてに近かった。
 「何か…おれにできることは」
 「そんな顔をするな、羅紗。君にはなんの責任もない。私がこの帳面に関して頼みたいのは、二つだけだ。ひとつは、この中身については誰にも、何も、喋らないこと」
 「もうひとつは…」
 「例の鉛筆だ。あれをまた何本か、作ってもらえないか」 
 羅紗は思わず無言になった。はつかねずみはそれに気分を害する様子もなく、淡々と続けた。
 「君のことだ、あの鉛筆を作ったことすら後悔しているのだろう。あんなことをしなければ、私は自分の内面が壊れていっていることに、最後まで気づかずに済んだかもしれないと」
 はつかねずみは鼻面を震わせて低い音を立てた。人間ならば、語りきれないことばを笑いで補うといったところだろう。
 「だが、違うよ。言っただろう、書くことは支えになると。あの鉛筆は崩れかけている私の脳を支える、最後の杖のようなものなのだよ。どんな迷走でもいい、私は杖にすがって歩けるうちは、前進を続けるよ」
 「わかりました。…鉛筆を取ってきます」
 羅紗は立ち上がった。どこまでも書きつづけようとするはつかねずみの意思の強靭さにはひざまずきたいほどだった。心からの敬意と、その先結果生み出されるのは錯誤と無秩序でしかないという絶望。ふたつの感情に揺さぶられて羅紗は混乱していた。場を離れる口実を与えてくれたはつかねずみに感謝しながら、それに従う以外に選択肢のない自らの無力さに絶望が濃くなった。






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