Lethe [ギリシャ神話]忘却の河、黄泉の国を流れ、その水を飲むと過去を忘れる すりばち型のナイトクラブに着いて、羅紗はぐるりと見渡したが、客席には、葉月とみやびちゃんの姿は見えなかった。かわりにチーフが現れて、服の裾を軽く引く。 「下にいるのか?奈落に?」 訊ねてみても、尾長猿はもちろん言葉を喋れない。羅紗を上目遣いに見上げながら、もう一度裾を引いた。先をちょこちょこと急ぐチーフに、仕方なくついていく。 宵司は、同じ客人を二度続けて同じ扉から中に入れないように、尾長猿たちに教え込んでいる。それは羅紗も例外ではなく、今夜案内されたのは、掃除道具置場の奥に設けられた、からだを低く屈めてようやくくぐれるような腰高の小さな扉だった。おかげで、頻繁に調律に通っているにもかかわらず、羅紗でさえ、この建物全体のどこに、合計でいくつの隠し扉が設けられているのか、完全には把握していない。 奈落に足を踏み入れると、そこにはピアニストでもなく、みやびちゃんの愛人でもなく、ただ風変わりなナイトクラブの経営者としての宵司がいた。大きな衝立が、グランドピアノをすっかり隠してしまっているせいで、奈落はひどく狭く、ふだんの半分ほどの息苦しい空間になっていた。 奈落に気の進まない他人を入れるとき、宵司は、それで自分の正体も隠す事ができるとでもいうように、幌布を張った衝立を持ち出してグランドピアノを隠した。ナイトクラブがオープンしてまもなく、隠し通路を改造するための業者を呼び入れるときも、同じようにしていたはずだ。 あの夜は、ありもしない法螺話をでっちあげて業者を煙に巻き、そのあと二人で大笑いしたものだった。羅紗は、数年前のその場面を鮮やかに思い出したが、今夜はとても笑う気分にはなれなかった。空間の狭さに合わせるように、声を潜めてたずねた。 「…上にいると思ったんだけど」 宵司は腕を組んで、衝立の奥へ視線をくれた。 「こっちもそのつもりだったよ。でもみやびちゃんが、また吐いちゃって。今、葉月と奥の洗面室にいる」 「悪いね」 「別に……すぐにチーフが掃除してくれたから」 「顔色が悪いな。例の偏頭痛か?」 「どうってことないよ…羅紗、いつも思うけど、心配しすぎだよ。ちょっと健康すぎるんじゃないの」 宵司は身も蓋もないことを言い放ち、羅紗の抱えたトートバッグに目をやる。はつかねずみはみやびちゃんの名前が出たときから、袋をしきりに揺さぶっている。 「みやびちゃんのご主人?」 「そうだよ。…目が醒めましたか?」 「ああ。出してくれ」 羅紗は少し迷ったが、トートバッグをソファの前のテーブルに置いた。はつかねずみはゆっくりと這い出してきた。 「ここはどこだ?」 宵司は答えず、黙って軽く会釈した。羅紗がかわりに答える。 「ナイトクラブです。旧オペラ座を改造した店です。初めてですか?」 「オペラを見にきたことならある。取り壊したんじゃなかったのか」 「僕が買い取ったんです。歴史的な建造物を壊すのは、勿体なくて」 宵司が穏やかに口を挟んだ。 「この店のマネージャーです。宵司といいます」 「女どもは、ここへよく来るのか?」 「ああ…そうですね。会えば挨拶をする程度には」 「これが店なのか? 薄汚い場所だ」 「ここは地下の、僕の事務所です。まあ、上も大して変わりません。彼女達がいると、店が華やぐ」 宵司は言い、ふとはつかねずみから目を逸らす。両手の指をゆっくりと組み、目に見えない静かな力を込める。嘘をつくとき、無意識に必ず見せる仕種。それは、話がねじれるほどに深くなる矛盾を封じ込めようとしているようにも見える。 はつかねずみは針で刺すような口調で訊ねる。 「その猿は、もと人間か?」 「まさか。違いますよ。特に賢い群れを選んで飼いいれただけ」 「なぜ人間を雇わない? 人件費を浮かせるためにか?」 「目障りなら下がらせますよ。チーフ、用があったらまた呼ぶから。ありがとう」 空いた薬瓶に保存してある豆を幾粒か渡してやると、チーフはそれを握りしめて出て行った。はつかねずみは苦々しく言う。 「悪趣味なことをする」 「…」 普段の宵司なら、無表情のまま、辛辣な嫌味のひとつでも言い返すところだったが、今夜は揉め事を避けるために細心の注意を払っていた。ごく穏やかに、謙虚とも言えそうな態度で答える。 「もともと人づきあいが苦手で…しかも性格が恐ろしく大雑把なもので。人間の従業員の諍いを仲裁したり、個別に雇用保険をかけたりするなんて、考えるだけで途方に暮れてしまって。これが、思いつく限り、いちばんシンプルな方法だったんです」 「人間嫌いなくせに、うちの女どもとは親しくしているようだな」 「…全くの人間嫌いと言い切れるほど、強い人間でもありません。彼女達は、なんていうか…ちょっと普通の女の子たちとは違う。きゃあきゃあ騒いだりすることもないし…話しやすいところがあって」 「気に入らんな」 はつかねずみは宵司の言葉を遮り、きりきりと歯を軋ませた。 「何がです?」 「この部屋も、胡散臭い店主も、何もかもだよ。とくにこの男…何も考えていないように見えるが、なかなかどうして、生まれついての演技者だ。考えるより先に口から嘘が出てくるたちじゃないのか?」 宵司は薄く笑って目を伏せ、何も答えない。軽く首を振り、顔を上げると、はつかねずみの頭越しに羅紗に声をかけた。 「そんな風に見えるかな」 「さあ…そんなこと、おれに聞くなよ。それより、女の子達の様子を見てきてくれないか?」 「別にいいけど」 宵司が行きかけると、はつかねずみはそれを制した。 「逃げることはない。ここにいろ。どれだけ私を騙しとおせるか試してやろう」 「どっちが悪趣味だよ」 宵司は声を出さずに呟いた。はつかねずみは、幌布の奥へ鼻面を向け、面談試験をする教授の態度で質問した。 「さあ、答えろ。あの衝立の向こうに何を隠している?」 「…かなわないな。あなたには」 宵司は肩をすくめた。下手に強情を張って綻びを見せるよりは、より安全な真実を知らせた方が、ことは穏便に収まりそうだった。 「僕の正体…正体といえるほど大仰なものでもないんですが、ピアニストなんです。あの衝立の向こうにはピアノがあって…ただ、人前で弾くのが苦手なもので。ひとりのほうが気分よく弾けるんです」 「飲み屋の与太演奏か。確かに、地下室でこそこそ弾くほうが似合いかも知れんな」 「そうですね。たいしたものじゃないんです。ほんとに…」 「何か弾いてみろ。まだ耳はまともだ、聴いてやる」 はつかねずみは命令調で言った。その声は、嘲るような高慢さを含んでいる。宵司は長い指で顔の半分を覆い隠して、溜息をつく。 「そう言われるからいつも、隠しておくんです。退屈させるだけですよ」 「安心しろ、笑いやしない。退屈ならひと眠りするまでだ」 「本当に苦手なんですよ…実のところ、いつも、弾きながら、物凄くのめりこんでしまうんです。まるで、人前で裸になるようなもので…それを見られるのに、どうしても馴れなくて」 「見てくれなど気にするな。ここにいるのはヒトじゃない。一匹のねずみだ」 宵司は首を振った。本気で困ったように羅紗を見る。 「参ったな……羅紗、わかるだろう? 今日は無理だよ」 確かに、自分で納得せずに弾くときの宵司の演奏はひどいものだった。義務的に繰り出される音は、生気も揺らぎもなく、精密さだけがとりえのコンピュータの数列を思わせる。聴かされるものは、たとえこの演奏者の技術にずば抜けたものがあったとしても、本当に感動的なのは技術ではないということをつくづく思い知らされるのだった。 「余程自信がないのか? 情ない。羅紗、この男のピアノも調律してやってるんだろう。実際のところ、腕はどうなんだ? ナイトクラブの店主の道楽ピアノの腕前は」 咄嗟に問いかけられて、羅紗は動揺を隠せなかった。先ほどまでの理知的で、優しくすらあった哲学者はすっかり消え去り、ここにいるのは、敵意を剥き出しにした、それこそねずみのように卑しい男だった。ふだんは、すごく性格悪いの。いつかみやびちゃんが言ったことばを思い出した。 羅紗は宵司をちらりと見やる。宵司の訝るような視線とぶつかった。普段の羅紗なら、こんなレベルの低い挑発を仕掛けてくる相手など、殺虫剤でも撒くように容赦なく遠ざけることができるはずだった。先日のコンサートの席でも、たとえば宵司に対する敵意を隠さない、僻みっぽく才能に乏しい楽団員を相手に、羅紗は巧みに矛先を自分に向け、敵意そのものを真綿にぶつけるように失速させて追い払ってしまった。宵司には、板挟みにされた羅紗が曖昧な態度を取りつづけていることが理解できない。 「並のバーのピアノとは、全く違いますよ。でも、今夜は止しましょう。気が乗らないと…」 「羅紗、お前も結局はそうやって、私を真実から遠ざけようとするのだな」 はつかねずみは答えかけた羅紗を遮って、ヒステリックに歯軋りした。 「この男とぐるになって、私を馬鹿にするんだな。もういい。誰も信用ならん。私は…」 はつかねずみは喚きつづけたが、それを遮るように、急に衝立の向こうで物音がした。もつれあう、ふたつの不規則な足音。 → |
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