はつかねずみの死の報せは、ごく限られた人にだけもたらされた。
 葉月から電話を受けたレニーは、一時間もしないうちに、黒塗りのリンカーン・コンチネンタルを自ら運転してナイトクラブに駆けつけた。オペラ座としての役目を終えるのを見届けて以来、この建物を訪れるのは初めてだった。
 壁には落書きが入り乱れ、手入れされることのない柱や石段には黒い染みが広がっている。堂々たるファサードに陰影を添えていた照明は疎らに落とされていて、戸口に下がる「not closed」というひねくれた表現のプレートに気づかなければ、ほとんど廃墟のようにも見えた。
 建物の痛ましいほどのさびれ具合と、それでもなお、ここが今もナイトクラブとして機能しているという現実。軽い目眩を感じながら、レニーはかつては華やかだったエントランスに車を寄せた。
 レニーが上の客席に着いたとき、葉月は地下でみやびちゃんに付き添っていた。宵司と羅紗に出迎えられたレニーは、その理由がわからずに、少しの間ことばを失った。どちらも私服姿でナイトクラブに立つ二人は、何も知らない人にとっては、どこにでもいる、若く親しい友人同士にしか見えないだろう。レニーは自らの立場を思い出し、ようやく平静な大人の態度を取り戻した。
 「宵司、こんなところで君に会うとは」
 「偶然じゃありません、ミスタ・バーンスタイン…僕が葉月に頼んで、電話してもらったんです」
 宵司は押し殺した声で言う。その表情が不意に崩れるように歪んだ。
 「許してください。あなたの親友だなんて知らなかった…僕が彼を…」
 テオドールの正体が、哲学者のテオドール・スタッテンベルクであること、そして指揮者レナード・バーンスタインの親友であることを、宵司はついさっき聞かされたばかりだった。今までみやびちゃんの夫に関心など持った事はなかった。運悪くはつかねずみになってしまい、みやびちゃんを噛んだり引っかいたりしている、その程度のことを何となく知っているだけだった。
 「何があったんだ」
 レニーに問われて、宵司は答えに窮した。どこから何を話せばいいのか判断に迷った。羅紗が代わりに、手短に事実だけを伝えた。
 「宵司が指を噛まれて…突然のことで、驚いて振り払ったんです。それで…」
 「…そうか」
 無表情にレ二ーは呟いた。訊ねたいことは山のようにあったが、その全てを一旦抑えつけて、ただ穏やかに宵司に訊ねた。
 「指は大丈夫か? 酷い怪我では?」
 「え…いいえ。大丈夫です。そんな…」
 厳しい非難を覚悟していたのか、宵司はレニーの優しいことばに不意をつかれたように目を見開いた。まだこの若者は無邪気なのだと、レニーはふと痛切に思う。
 「そんな…大したことじゃなかったんです。ただ突然のことで、がむしゃらに…」
 「無理はないよ。君はピアニストだ」
 レニーはゆったりと言う。自分のしてしまったことにショックを受け、おののいている様子のピアニストよりは、横に控えた調律師のほうが、まだ落ち着いた受け答えができそうだった。
 「君は…確か」
 「調律師です。羅紗といいます」
 指揮者や楽団員、歌手にとって、ピアノの調律師というのは決して印象に残る存在ではない。名前や顔を失念されることには馴れていたが、レニーはそうではないというように首を振った。
 「君は確か…葉月と」
 「ああ…はい。偶然知り合って」
 「葉月はどこにいる? テオドールは…テオがいるのなら、彼女も、みやびちゃんもいるのだろう」
 「はい。ただ…二人とも、ひどくショックを受けていて。少し待ってください。…様子を見て、ここへ連れてきます」
 流暢な口調だったが、どこにいるかという問いの答えにはなっていない。退路を探るように、ふと視線がさまよう。
 レニーは不審げな表情をふたりに向ける。過失でテオドールを死なせてしまったこと以外にも、彼らには何か、胸にわだかまった秘密がまだあるようだった。
 「どうしたんだ、君達。…私はここへ来てはいけなかったのか?」
 「いいえ…そんなことは」
 宵司は口唇を噛んで一瞬迷ったが、覚悟を決めたのか顔を上げた。なかば衝動的な決断だったとはいえ、ここへレニーを呼ぶよう葉月に頼んだのは宵司自身だった。
 「葉月たちのところへご案内します…地下にいるんです」
 「地下?」
 「ここに住んでるんです。地下を改造して」
 ふいに真実を打ち明けた宵司に、羅紗は本気で驚いた表情を見せる。宵司はもうためらうこともなく、淡々と続けた。
 「あなたを信頼して告白しますが…本当は僕はずっと、この街に留まっていたんです。ここにピアノを置いて、弾いていたんです」
 「まさか。信じられない…こんなところで」
 「本当です。冬也に見つからなければ、今も地下に籠りつづけていました。多分、これからもずっと…」
 宵司は静かな表情でレニーを見つめた。
 「あなたを欺いていました。冬也も、羅紗も巻き込んで」
 レニーは宵司を見て、次に羅紗を見た。
 物静かで礼儀正しく、仕事熱心なだけの調律師と思っていた。外部のソリストの評判もよく、最近では、名指しで彼に仕事を頼む演奏家も少なくなかった。
 もともとどんな演奏家の要求にも対応できる柔軟さを持っていたが、宵司との相性は際立っていた。遠慮がちに言葉を交わしながら、短い期間でプリペアード・ピアノを仕上げていく様子を見ながら、演奏者のイメージを即時に理解し、具体化する勘のよさに舌を巻いた。だがそれも、すでにここで、音に対する暗黙の了解が組み立てられていたのなら納得がいく。レニーは羅紗を見て訊ねる。
 「冬也はともかく…君は、ずっと知っていたんだな?彼が、宵司がここに隠れていたことを」
 宵司の行方が知れない間も、羅紗の姿は常に見かけていた。知りながら、あんなに屈託のない様子で周囲に溶け込んでいたのかと思うと、つい声が強くなった。それを感じ取ったのか、羅紗は少し恐縮したように、それでも誠実さを失わず答えた。
 「彼がコンクールでピアノを手に入れて以来、ずっと。ここの楽器を手がけていました。でも、今まで、どんな演奏家でも、顧客のプライベートを口外したことはありません」
 レニーは首を振った。彼の礼を保った態度がかえって神経にさわった。羅紗は少し考え、控え目に付け足した。
 「ミスタ・バーンスタイン。誰にも秘密はあります」
 「しかし…これは、君個人の問題じゃないだろう。これほどの才能を、黙ってこんな場所に埋もれさせておくなんて…」
 「仰ることはわかります。でも、表舞台に立つだけが、演奏家のあるべき姿とは思いません」
 羅紗は、穏やかに、けれど一歩も譲らずに言った。この偉大な指揮者と、こんなに近くで、真向から対峙するのは、もちろん初めてのことだった。ほとんど畏れに近いものを感じながら、それでも退くわけにはいかなかった。
 「この場所を選んだのは宵司自身だし、おれもそのことを理解しています。ここでしかできないこともあるんです」
 「それは何だ?」
 「ことばでは言えません」
 羅紗は正直に応じ、レニーに反論する間も与えずに続けた。
 「演奏を聴けば…この客席に座って、彼の演奏を聴けば、必ず理解していただけるはずです。…でも今は、そんな時じゃない」
 最後の一言で、レニーは、自分がとにかく慌てて、ここへ駆けつけたわけを思い出した。
 「そうだ、葉月と…テオドールは」
 じっと息をひそめて、レニーと羅紗のやりとりを聞いていた宵司が、顔をあげた。乾いた声で言う。
 「ご案内します。こちらへ」
 もうしたたかに演技を続ける気力も失せたという表情だった。そのまま背を向け、一番手近にあった扉を開ける。ぽっかりと開いた暗い通路に、レニーは驚きの表情を見せたが、それでも大舞台を何度も踏んだ指揮者の度胸で、無言で足を踏み入れた。






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