宵司はナイトクラブに留まり、葉月とみやびちゃん、そして羅紗は、レニーの車で映画館に戻った。みやびちゃんを一人にしておくことはできなかったし、テオドールのウィーン風の屋敷はあまりに陰鬱すぎて、とても帰る気になれなかった。みやびちゃんの気持ちを思うと、羅紗は立ち去った方が良さそうだったが、葉月のことを考えると、置き去りにして自分の部屋に帰ることはできなかった。みやびちゃんと葉月に寝室のベッドを使わせて、羅紗はリビングのソファで眠ることにした。
 ブランカが映画館を訪れたのは翌日の遅い朝だった。一度テオドールの屋敷まで歩いたブランカは、午前の強い陽射しにすっかり疲れきって映画館にたどりついた。
 リビングで羅紗と鉢合わせしたブランカは、多少不機嫌な様子で羅紗をじろじろと眺めた。微妙な隙も見逃さない仕立屋の視線に、羅紗はたじろぎ気味に挨拶する。
 「やあ…あなたがブランカ?」
 会ったことはないが、肌も髪も白いデザイナーのことは、葉月から聞いている。
 「はつかねずみのことは、お気の毒だったね」
 ブランカのことばに、羅紗は黙って顔を伏せる。誰がどうお気の毒なのか、自分の中でまだ整理がついていない。
 「で、あんたが羅紗」
 羅紗は頷いた。服の中身まで見透かすようなブランカの目つきに、どうも落ち着かない気分にさせられる。
 「葉月たちは?」
 「眠ってる。少し前に寝ついたばかりなんだ…もうしばらく、そっとしておいてくれないか?」
 「ふん」
 ブランカはお座なりに頷き、リビングに上がりこむ。みやびちゃんが結婚してすぐ、葉月がひとりで暮らし始めたころ、頻繁に訪れ、泊まっていた部屋。家具も、部屋のレイアウトもほとんど変わっていないけれど、空気が違う、と強く感じた。以前は陽射しが深く差し込む朝でさえ、足先がすっと冷えるような仄暗さがあった。あの空虚さは、もうここにはない。この男のせいだとブランカは思う。
 「あんたに会ってから、葉月は変わったね」
 「そうかな」
 「明るくなったよ。デザイナー的には、あの暗さも良かったんだけど」
 「じゃあ、明るくなり過ぎないように、言っとくよ」
 コーヒーをブランカについでやりながら、羅紗は適当に受け流す。白い磁器のカップは、ブランカの色のない手に良く馴染んだ。
 「ピアノの調律をやってるんだって?」
 コーヒーを一口啜ってブランカは訊ねる。羅紗は短く答える。
 「まあ、楽器の整備屋みたいな仕事だよ」
 ブランカは色の薄い唇を舐める。彼が葉月の恋人をテストするのは、これが初めてというわけでもない。
 「あのこ、職人が好きなんだよね。自分が不器用なせいかもしれないけど、あれって、僕の影響かも」
 「…葉月を良く知ってるみたいだけど」
 「まあね。十四、十五の頃から知ってるよ。僕が、彼女の初めてのオトコ」
 「ああ、そう」
 笑う気分でもなかったが、羅紗は薄く笑った。からかわれているのは最初から気づいている。
 「で? 今度は、おれの初めてのオトコにでもなってくれるつもり?」
 少しの間、ブランカは黙って羅紗を見返した。何度か瞬きを繰り返す。
 ブランカが抱くのは女だけではない。彼にとって人の美しさは、色彩の美しさと同じようなもので、赤か青のどちらか一方だけを愛することなどできようもなかった。たとえば葉月のときは、自分には決して持ち得ない黒の深さに惹かれていた。欲しいと思う相手に性別など関係ないと信じていたが、さすがにそれを声高に主張することはできなかった。
 「どうしてわかった?…葉月が言った?」
 「いや…そうじゃないけど。見て、なんとなく」
 思いがけず、傷ついたようなブランカの表情に、羅紗は少し申し訳なさそうに答えた。
 「葉月と、今でも関係してるって言ったら?」
 ブランカの挑発に、羅紗は全く取り合わない。
 「意味ないね、そんなでたらめ。賭けてもいいけど、絶対ない」
 「何でそう言い切れるのさ?」
 「それくらいわかるよ」
 ブランカは大きく息を吐き、苦笑した。合格だ。余計なお節介といえばそれまでだが、葉月を任せてもいいかどうか、ブランカなりに基準を勝手に決めている。
 「確かにでたらめだよ。もう何年も前に終わってる。仮縫いやら試着やらで、裸はしょっちゅう見てるけど、それだけ」
 手の中で空になったコーヒーカップを弄びながらブランカは言った。
 「彼女、強いだろ」
 「ああ、尊敬してる」
 「そうなるように仕向けたんだ、僕が」
 自分で仕上げた作品を手渡すときのように、誇らしげな口調だった。羅紗は黙って、目で先を促す。
 「みやびちゃんのお母さんが亡くなったときのことは知ってるよね?…あのころ、ほっといたら、自分の目を潰しかねないくらい怯えきってた。だから逆に、爬虫類も毛皮も、似合うと思ったらなんでも着せた。そんなことにいちいち動揺しながら生きてたら、この先、やってけない」
 「確かにね」
 「でも最近、やりすぎたような気がしなくもなくて。外見がキツい割に、中身のほうは…」
 「大丈夫だよ、ブランカ。心配ない。もう立派な大人だよ。 …何かあっても、おれがちゃんと見てる」
 「…そっか。余計なこと言ったかな」
 ブランカは呟き、すぐ横のスピーカーの上にコーヒーカップを置いた。足元の重そうな紙袋を拾い上げる。
 「こんな話しにきたわけじゃないんだ。差し入れ持ってきたよ。店に出したものの残りで悪いけど」
 葉月から、ブランカの料理上手の話は何度も聞いている。羅紗は口元をほころばせた。
 「いや、助かるよ。ありがとう」
 「別に…あの女の子達にこれ以上痩せられたら、僕も困るからね。冷蔵庫に入れとくから、起きたら、みんなで食べれば?」
 素気なく言い捨ててキッチンへ向かう後姿を見て、羅紗はふとブランカに好意を覚える。くしゃくしゃの紙袋に包まれた料理はブランカそのものだと思った。毒舌なり皮肉なりに一旦くるんでからでなければ、相手に差し出すことの出来ない優しさ。それを見抜けない人にとってのブランカは、素晴らしく腕のいい、けれどほんの少し意地の悪いデザイナーとしか映らない。そうすることで彼は、無条件に好意を注ぐ相手を自ら限定している。
 ブランカもよく知っているはずの場所を、我が物顔で案内してやるのも馬鹿らしくて、羅紗は黙って見送ったが、ひとつ重大なことを思い出して立ち上がった。早足にキッチンに向かったが、遅かった。ブランカが叫び声を上げるのが聞こえた。





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