ホテル・ロヴァンペラの支配人は、テオドールはもちろん、みやびちゃんのことも覚えていた。
 「お待ちしておりました。本当に…お久し振りです」
 毎年、夏と冬の休暇をここで過ごしていた哲学者テオドール・スタッテンベルクが、ある夏、若く美しい妻を伴って現れた時のことを、支配人は鮮やかに記憶していた。歳格好は妻というより娘のようだったが、それでも二人が海辺を散歩する様子は、確かにお互い以外には何も目に入らない恋人同士のものだった。
 今まで贅沢を知らず、ごく普通の家庭で育ってきたみやびちゃんは、最初の夏、食事のときも、フロントに絵葉書を買いに来るときも、気の毒なくらい緊張しているのが傍目にも明らかだった。季節が変わり、二度、三度と訪れるたびに振舞いも表情も洗練され、誰もが声をかけたくなるほどの魅力を身にまとっていくのを、支配人は、まるで自分の娘のことのように見守っていた。もう大丈夫、そう安堵した次の夏。テオドールとみやびちゃんから、休暇の予約は入らなかった。
 氷を詰め、その上にはつかねずみの遺体を納めた保冷箱は重く、みやびちゃんのかわりに羅紗が館内へ運び込んだ。そこに、かつて毎年、誇りと喜びをもって迎えていた哲学者が、ねずみの姿になって死んでいると聞かされた支配人は、心の動揺を悟られないよう、無言でみやびちゃんに深く頭を下げた。顔を上げたときには、限りなく冷静で誠実な、普段の表情に戻っていた。支配人は羅紗から保冷箱を受け取り、みやびちゃんに向き直った。
 「私共の保冷室で、責任を持ってお預かりします。どうぞご安心ください」
 みやびちゃんは黙って箱と支配人を交互に見た。本当は手元から離したくなかったが、確固とした口調にただ頷くしかなかった。
 ロビーには、宵司がひとりで迎えに出ていた。場所柄に合わせて服装を替えるということは全く思いつかなかったらしい。いつものように、プレスをかけていない柔らかなシャツを着て、開いた衿元にはピアノの鍵を下げた鎖が覗いている。
 普通なら、人の疲れを癒し、健やかなリズムを取り戻させてくれるはずの休息地。けれど、柔らかな潮風と、建物の持つ伸びやかな開放感が、宵司にはかえって居心地が悪いようだった。頬のあたりは前よりも痩せ、ひどく疲れた様子に見える。
 宵司と顔を合わせるのは、はつかねずみが死んだあの夜以来だった。電話では平然とした調子を装いつづけていた宵司も、面と向かっては、何を言うべきか戸惑っているようだった。羅紗は立ち尽くしている宵司を見て苦笑した。
 「ひどい顔だな。しっかりしろよ」
 「わかってるよ」
 軽く肩を叩かれると、宵司はそれがこたえたとでもいうように眉をしかめた。
 「ピアノの調子は?」
 「悪くないけど、良くもないよ。仕立てはいいのに皺くちゃのまま放ってある洋服みたいな感じ」
 「それって、今の自分の格好のことじゃないのか?」
 宵司は自分の着ているものに目をやって、少し考えた。言い返す言葉が見当たらないのか、ただふてくされたように首を振る。
 「とにかく、何とかしてくれよ。今の状態じゃ、触る気にもならなくて」
 わかった、と羅紗は頷いて、葉月の黒いナイロンの旅行鞄を持つ。いつもの工具箱のかわりに、調律の道具が一式詰まっている。
 「今から始めるんじゃ、また徹夜だな。…葉月、演奏会は明日の夜だから。それまではみやびちゃんと一緒に、好きなようにしてて」
 言いながら、指先を一瞬だけ、葉月の指に軽く絡ませる。そのまま背を向けて、宵司と肩を並べてピアノの据えてあるラウンジへ立ち去っていった。





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