ふたりの支度が整う頃には、もうすっかり陽は落ちていた。空が濃紫色に染まり、風に少し冷たさが混じる時間になってから、葉月とみやびちゃんは、ようやくラウンジへ降りて行った。
 海に面したガラス張りのラウンジに明りは少なく、広い空間にゆったりと席が設けられている。楽器は奥の窓際に、ステージも設けず床に直接据えられている。レニーの姿はまだ見えない。宵司と羅紗はピアノの前で、何か話し合いながら調整を続けている。
 代わりにふたりを迎えたのは、ヴァイオリニストの冬也だった。すらりと背が高く、黒い髪と瞳、服や靴まで全て黒で固めた姿は、真直ぐな北国の針葉樹の幹を思わせる。こんなふうに黒を着こなす男の子、ブランカに会わせたらきっと夢中になるわ。葉月はそんなことをふと思う。
 背の高い彼は、葉月を見下ろして丁寧に挨拶した。
 「久しぶりです。葉月さん。それから、みやびさん、ですね。初めまして」
 「葉月でいいわ。それから彼女は、みやびちゃんなの。みんなそう呼ぶのよ」
 「ああ、そうですか。わかりました」
 微笑しながら頷いたが、口調にはどこか硬さが残っている。それに自分で気がついたのか冬也は言った。
 「海外暮らしが長かったせいか、緊張すると、母国語までおかしくなってしまって。かといって、英語がパーフェクトに話せるわけでもないんです。どっちも微妙に変だって、よく言われます」
 その微妙に変なところが魅力的だと言われたことも、今までに何度かあるのに違いない。葉月は思わず微笑んだ。
 「緊張してるの?」
 「そうですね、少し」
 宵司のほうへ視線をやり、冬也は、ふと真剣な表情を見せた。微笑が消えると怜悧な少年の顔が、理知的な大人の顔へと変貌する。
 「正直言って、ちょっと怖いくらいですね。あの集中力…弾きはじめると、僕達のことも、今いる場所も…終いには、自分のことまで忘れてしまうみたいで。何ていうか、彼がどんどんいなくなって…その分、音楽のほうが、どんどんリアルになっていくような。わかりますか?」
 「わかるわ、なんとなくだけど」
 冬也の曲をオーケストラを外して、独奏楽器のみのアンサンブルで再演したいと、例のコンサートの直後に言い出したのは宵司だった。最初は驚き、そんな演奏は内省的すぎると反対した冬也だったが、宵司はそれを笑い飛ばした。内省的になって何が悪い。もともと内面から生まれた音楽を、他人に聴かせるために飾り立てるなんて、馬鹿げている。そうしなければ届かない連中の方が多いのも、気に入らない事実ではあるけれど。
 その場では、いずれ近いうちに試演の機会を設けることを約束して話を切り上げた。あれから、まだ半月も経っていない。三重奏のための編曲を清書する間もなく、冬也はレニーの電話を受けて、ロヴァンペラへ駆けつけてきたのだった。
 「彼のああいう考え方は、ナイトクラブで身についたんでしょうね。四年間…あんな場所で、どんなふうに過ごしてきたのか、想像もつかなくて」
 「別に、普通にしてたわ。毎晩、ナイトクラブでピアノを弾いて、あたしたちや羅紗に会って。ピアニストだからって、目立たなきゃいけないわけじゃないわ」
 穏やかに、けれどはっきりと言ったのは、みやびちゃんだった。冬也は少し眼を見開いて、素直に頷いた。
 「確かに、そうかもしれませんね。人前で弾くのが当たり前になる暮らしのほうが、おかしいのかもしれない。…本当のところ、少し後悔してるんです。こんなところまで彼を引っぱり出して…なんだかとても無理を強いているようで」
 何か秘密でも打ち明けるように声をひそめた、その言葉の後ろ端だけを、冬也を呼びに来た宵司本人が聞きとめた。
 「余計なお世話だね。ひとを絶滅危惧種の珍獣みたいに言うなよ」
 「けっこう、近いものがあると思ってましたけど」
 悪戯を見つけられたように肩をすくめて冬也が言い返すと、宵司は溜息をつく。それでも楽器の調子が整えられていくのとシンクロするように、宵司自身も、本来の調子を取り戻し始めているようだった。
 「ほらね。前に言っただろ、見かけほど可愛くないやつだって」
 「そうみたいね。見かけより可愛いところもあるみたいだけど」
 葉月が応えると、宵司は意味がわからないのか、口をつぐんだ。それきり軽口はおさめ、みやびちゃんを見た。
 「…来てくれてよかった」
 いつもどおりの素気ない口調だったが、何も装うものがないだけに、かえって歪まずに届いたようだった。みやびちゃんは黙って頷いた。淡い色のルージュを引いた口唇が、かすかに微笑したようにも見えた。
 「君たちの席は用意しておいたよ…近くにいたいだろうと思って」
 宵司が示したのは、楽器のセットにほど近い円卓だった。すぐ脇にマホガニーの書見台が据えられ、その上に、使い込まれた羅紗の工具箱が、所在なげにぽつねんと置かれている。
 「羅紗から彼のこと、少しだけ聞いたよ。ファインベルグが好きだったって…知ってたら、何か弾いて聴かせればよかった。でも、あのときはとても……」
 宵司はふと言葉を止める。黙ったままのみやびちゃんに訊ねる。
 「ファインベルグを知らない? ロシアのピアニスト…テオドールが好きだった」
 みやびちゃんは首を振った。どんなに愛していても、彼の哲学や音楽の趣味まで、全て分かち合うことはできなかった。書斎に積まれた本や旧いレコードの山は、最後まで未知の領域のままだった。
 「ピアニストは、あなたしか知らないの」
 宵司は少しの間、みやびちゃんを黙って見つめた。憐れみと、切なさと、苦痛と甘い欲望が折り混ざった複雑な表情。回りにだれもいなければ、そのままみやびちゃんを抱きしめて口づけでもするのではないかと思えるほどだった。そうする代わりに、宵司は我に返ったように眉を引きしめ、淡々と告げた。
 「もうすぐ始まるから、座って、待っていて。…冬也、行くよ」
 宵司が先に背を向け、冬也があとに続く。一旦ラウンジを離れる二人を見送ってから、葉月はみやびちゃんを促して席についた。





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